シール貼り

 

家の壁などにシールを貼って親に怒られたという経験をしたことがあります。特に粘着力の強いシールはうまく剥がすことができずに残ってしまいます。

それは人に対しても同じことが言えると思います。人に貼るシールは実際のシールではなくて、レッテルです。

私たちは、人に(時には自分に)レッテルというシールを貼りたがります。そして一度貼られたレッテルはたちが悪く剥がれにくいのです。

幸い子どもたちはまだレッテルシールは貼られていません。

大切な命を育てる私たち大人が、子どもたちにマイナスシールを貼っていないかいつも注意していく必要があると思います。

聖書には「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。」という言葉があります。

子どもたちに、だめなレッテルシールを貼るのではなくて、子どもたち自身の存在価値を高め、伸ばすシールを貼っていくことが、子どもを育てている私たちの使命だと思うのです。

子どもたちの心にに貼られたシールは良くも悪くも、なかなか剥がれないものです。

そのひとこと

子どもの吸収力は、大人の比ではありません。この時期、運動会の練習をしていますが、日々上達しているのが目に見えて分かります。

この時期の子どもは、家族との関わり、友達との関わり、保育士との関わりをとおして、生きるために必要なことをどんどん吸収していきます。

このような子どもたちと関わる大人は、自分のその一言を子どもは吸収し、他者に同じように言うと言うことを覚えておくことが大切だと思います。

聖書には、「非難すべきところのない、健全なことばを用いなさい。」と書かれています。

私たちの口から出る何気ない一言が本当に子どもにとって良いものなのか、子育てをする者として気をつけていきたいと思わされます。

子どもは良いことも、悪いこともどんどん吸収していきます。

私たちの育てている子どもたちが、大人になったとき、健全な言葉を用いて生きていくためには、私たち大人から出るその一言が、健全な言葉でないといけないのだと強く思わされます。

そのひとことがとても重要です。

こひつじ

この園の名前は「こひつじ保育園」といいます。聖書には私たち人間を羊にたとえている話があります。たくさんいる動物の中から羊を選んだ理由は私たち人間に似ているところがあるからかもしれません。

① 羊は安心感をいつも持っていたい
羊はとても臆病な性格で、自分のことを守ってくれる存在と安心して過ごせる場所が必要だと聞いたことがあります。安心感のなかで、羊は自由に過ごすことができるようです。

② 羊飼いの守りがとても大切
羊飼いは、羊が安心して過ごせるように環境を整えるのが仕事です。ですから、羊飼いはケガをしていないか、食欲は大丈夫かなど、ひつじ一匹一匹の健康状態を確認していくようです。ただ全体を見守るのではなくて一匹、一匹に応じた飼育をしていかないといけません。
羊は、この羊飼いの守りがあるから安心して毎日を過ごせるのです。

③ こひつじ保育園の子どもたち
こひつじ保育園は通っているお子様にに安心して園生活を送ってほしいという願いをもっています。そしてお家の方が愛し、守り育てている子どもたちを、同じように愛し、守っていきたいという願いをもっています。
一人の存在を大切にする、一人の人格を愛おしむことが、そして、子どもたちに安心感を与え、個性を十分認発揮させる環境を造るだと信じています。

見えないものにこそ目を留める

子どもは文字通り日に日に成長していきます。その成長に本当に驚かされます。

昨日できなかったことができるようになっていて、驚いたという経験をされた方も多いと思います。

子どもの成長と共に過ごすときに気をつけていきたいことは、目に見えるものだけではなくて、見えないものにも目を留めていくことです。

身長や体重、身体能力や、言語能力の発達と同じように心も日々、成長していきます。

聖書には「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」という言葉あります。

尊い幼い命を育てる者として、この目に見えない心のはぐくみに力を注いでいくことは大切なことではないでしょうか。

子どものアイデンティティーを形成していく上で目に見えないものに目を留める保護者の存在はとても重要なものだと思います。

いつも一緒にいる存在でしか気づくことのできない見えないものを輝かせていきたいですね。

ブラック珈琲と砂糖入り珈琲

聖書には「人からしてもらいたいことは何でも、あなた方も同じようにしなさい」という言葉があります。例えば、ブラックコーヒー派のAさんがこの言葉を実践しようと、砂糖派のBさんに、ブラックコーヒーを淹れました。しかし、Bさんは全然喜んでくれません。何が問題だったのでしょう。

それは、Aさんが、自分が喜ぶことをそのまましてしまったからです。ではどうすれば良かったのか、答えはBさんが一番喜ぶコーヒーは何なのかを考え、砂糖入りのーヒーを淹れることでした。

冒頭の聖書の言葉には自分が喜ぶことを同じようにするのではなく、自分にとってマイナスでも相手が心から笑顔になることをするようにという意味があるのです。

私たちは、幸せを求めます。だとするなら同じように他者にも幸せをもたらす生き方をしていくことが大切です。これが聖書に示されている生きる道です。

その為には、他者の喜ぶことが何なのか考えないといけません。自分はブラック派だけど、この人は砂糖入りか、それともカフェオレか、何が好きなのかと、その人に思いを向けないと喜びを与えることができません。

ある意味それは、面倒な事かもしれませんが。その面倒な事こそ人間にとってとても大切なことだと思うのです。

能動的生活

私たちは得てして「〜されたい」と思います。「荷物を持ってもらいたい」とか、「プレゼントもらいたい」とか「愛されたい」など、例を挙げるときりがありません。

確かに受け身でいる方が楽です。相手が何かをしてくれることを待っていればいいからです。けれども本当に受け身でいる方が幸せなのでしょうか。

こひつじ保育園では毎日子ども礼拝があります。その礼拝の中で平和を求める祈りをいたします。その内容は受動的に生きるのではなくて能動的に生きるように願う祈りです。

能動的に生きる方が確かにパワーを使います。時には傷つくこともあるかもしれません。けれども人に与える時に自然と心に沸いてくる喜びや平安は与えた人にしか得られない大切な経験です。

聖書には「受けるよりも与える方が幸いである」という言葉があります。

こひつじ保育園は聖書の言葉にあるように受ける側ではなくて与える側の方が幸せ者だと信じています。

お互いに与える側、つまり能動的生活を送るとき、小さな平和が生まれ、その小さな平和ががだんだんと大きくなっていくことを願っています。そのためにはまず自分が能動的生活をしていくことなのかもしれません。